「3.11東日本大震災」発生の、あの日とその後を振りかえる。「いま、ここ」の大切さに気付く

東日本大震災から7年。日々、日常生活を営めていることに感謝している みかん(@tangerine_buddy)です。いわゆる3.11と呼ばれる東北地方に甚大な被害をもたらした大地震と大津波の日、わたしは地域金融機関のシステム職としてオフィスにいました。あの日と、その後の混乱は一生忘れないでしょう。あの時を思い出してみます。

なお、いろいろあり過ぎて記憶が混乱しているために時系列は前後していると思います。

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避難訓練じゃなくて初めてデスクにもぐった

日常の中の1日。昼過ぎにオフィスでパソコンの前で仕事をしていたら、大きな横揺れがやってきた。サーバルームの横揺れ検知器がビービーと警告音を鳴らし始めた。人生で初めて、訓練でない状況でデスクの下にもぐってデスクの脚をギュッと支えていた。ちなみに、その時は神奈川県の、とある都市で働いていた。

数分間の大きな横揺れの中で身を守っているときに考えていたのは、

「基幹システムのホスト、もつかな…」
「DR環境の北関東にマジで行くかもな…」

と、金融機関の生命線である基幹システムに影響がないことを祈り、北関東の奥地にあるDR環境(災害時に使用するバックアップのデータセンター)に駆けつけてシステム稼働を続けなくてはいけないかもなって考えてました。あの頃は、金融機関とはいえ、地銀や信金などは満足なDR環境が無いのが実情で、それを稼働させるには結構大変だったのです。システム屋としては、その心配がまず頭に浮かんだ。

家族への連絡と安否確認

すぐにオフィスでNHKを流して被害状況をみなで見つめていた。幸い、基幹システムのホストは無傷で金融機関の事業継続はなんとかなりそうな安堵感があった。しかし、支店などの営業店ではATMなどが損傷したり一時的な停電でATMや職員が使う端末が使えないエリアもあった。

下請けのシステムオペレーターの若者が岩手出身ということを知っていたので、その若者には「まずは実家に電話して安否確認しろ。サーバルームの端っこの電話をつかえ」と指示した。あまり表だって身内の安否確認をするのが憚られる状況だったので、目立たないサーバルームの隅の電話を使うように伝えた。

もちろん、わたしも、妻や、まだ半年のムスメ、木造に住む祖母などの安否が心配でこっそり電話をかけ続けた。想像はしていたが、やはり妻や両親の携帯電話は基地局のパンクを防ぐために一般の通信は規制されており使い物にならなかった。

最終的には祖母の木造家屋の固定電話をハブにして家族全員の安全の確認がとれた。妻はムスメを抱いて祖母の家に来ていたらしい。

わたしは余震のたびにヘルメットをかぶりデスクの下にもぐった。緊急地震速報がひっきりなしに鳴り響いていた。JRはそうそうに運行をあきらめ夜には駅のシャッターもしめたという情報が入ってきたので、その日の帰宅は諦めた。

帰宅、その後のメルトダウンと被害の甚大さ

夜通しNHKのニュースを眺めながら支店の復旧を確認していた。金融システムを維持するために職員は本社や支店に残り、そのために食料を早めに調達するように通達がきた。

コンビニの食料品の棚はほとんどが売れてしまっており、大して美味しくもない菓子パンが多少残っていたくらいだった。お年寄りや子どもを連れた母親があっけに取られている中、いつも「地域に貢献」と謳っている地域金融機関の職員が食料の買い占めに走るのは、いささか違和感があった。目の前にいるお年寄りや子どもを救うのも地域金融機関の役目ではないかと思ったのが正直な気持ちだった。

翌日、JRは使いものにならなかったので京急と都営バスで数時間かけて帰宅した。バスに乗り換える前に駅のホームの公衆電話で妻に電話した。帰宅して、無事だった妻やムスメ、マンションの自宅をこの目で確認してホッとした。

福島の原発がヤバいことはNHKで知った。水素爆発で建屋が吹っ飛ぶ動画を見て「これはパンドラの箱がこじ開けられたな」って思った。わたしが初めて聞いた死者は茨城県か福島県の原子力施設で高所作業をしていた作業員が落下し亡くなった情報だった。その後、大津波が襲い、宮城県の海岸では数百の遺体が横たわっている旨のニュースが流れて、いよいよマズいと感じた。学校や高層建屋の上に非難し「SOS」と書いて陸自ヘリの救助を待つ人たちの動画が流され続けていた。

メルトダウン被害の阻止

父親が物理学専攻で東電の下請け企業だったので、原発は複雑な配管と、そこに冷却用の水を流すポンプが大切だとわたしも知っていた。原発といっても発電の仕組みは火力発電所と同様で沸騰したお湯の蒸気でタービンを回すことにより発電する。お湯を沸かす手段が火力か原子力か、その違いだけである。ただ、火は消せるが、原子力は消せない。ずっと冷やしておかないといけない。冷やしておかないと水が沸騰して蒸気になり、爆発が起こり、核燃料は高熱になって原子炉の底を突き抜けて放射性物質をばらまく。原発には冷却のための配管とポンプが重要なのである。

父親は同僚と新潟の東電原発で余っているポンプをかき集めて、警察の規制線を裏道経由で突破して福島原発にポンプを届けた。下請け企業群は東電からの恩を返すべく、ありとあらゆる協力を惜しまなかった。Jヴィレッジにはガレキを片付ける陸自の74式戦車が乗り入れ、米軍関係者も乗り入れていた。前線基地となっていた。

東電の現場の人間たちは、米軍は言葉が通じないし、陸自を動かす権限もないので、参集した下請け孫請けの人間たちを頼りに必死に冷却することに挑んでいたらしい。すでに東電社員や下請け会社の職員は津波で何人も行方不明になっていた。しびれを切らした官邸と米軍の勢いにおされて陸自の輸送ヘリが原発直上から放水をするという前代未聞の作戦を試みるという情報が伝わった。父親は国から放射線による被ばくを管理するカードを渡されていた。

数日後、節電のために輪番停電のニュースが流れた。東京23区のほとんどは輪番停電の影響を受けなかったが、わたしの勤める神奈川県のエリアは輪番停電の対象だった。

システム部門のわたしは停電のたびにATMや支店の端末の電源オフを指示して電源断を確認し停電に臨む。停電後は起動指示をして正常稼働を確認する。本社や基幹営業店の予備電力発電機を稼働させるための重油をあの手この手で総務部門が手配していた。本社も輪番停電エリアで、システム部門には電気を無駄にしないように不要不急のシステムや端末は電源断をしておけという通達もきた。

光の無い、まっくらな大都市の光景は一生忘れないと思う。本当にまっくらだった。福島や新潟の原発は首都圏のために稼働していたんだと改めて気づいた。

水不足や食料不足と風説への対処

飛散した放射性の物質の影響で飲料水が汚染されるという情報が駆け巡り、スーパーやコンビニではペットボトルの水がすぐに売り切れ、店頭に再度並ぶ時期は不明と張り紙がはってあった。特に子どもに影響があるという情報が流され、ちょうどムスメはミルクが必要な時期なので、安全な水の確保ができず妻は疲れていた。わたしは水道水は大丈夫であると何となく思っていたが、母である妻は少しのリスクでも避けたかったと思う。

東京都が500mlの備蓄用の水を数本提供してくれた。他にも数本、実家からおすそ分けしてもらった。年寄りは影響ないからってケラケラと笑っていた。

今でこそ、当時は様々な機関が放射線の拡散のデータを計っていたと明らかになっているが、当時は情報統制よろしく、何の情報もなく、東京の北東では放射線量が強いという報道が飛び交っていた。西日本に引っ越した著名人も多数いた。

在籍していた金融機関の本社には支店経由で取引先(融資先)から、被災した職員の親族に倉庫のコメを提供するという話や、輪番停電で夜道が危険なのでLED懐中電灯を提供するという話がきていた。なかなか粋な計らいを考えるじゃないかと思いつつ、わたしは、それは地域のお年寄りや子どもに配布して欲しいと思っていた。

すぐにLED懐中電灯が2個配布された。

そして、その後と今。精神疾患を超えて。

自宅では最低限の水とオムツ、食料などの防災セットを用意した。しばらくすると福島産や茨城産の生鮮食品は格安で販売されていた。しっかり洗えば大丈夫と妻に話したが、しばらくは原発近隣県の生鮮食品を妻は避けていた。

福島や宮城、岩手の海岸は青春18きっぷでよく1人旅をしたので、わたしは岩手や福島、茨城のものを進んで買って食べた。ボランティアに行きたいなって切に思ったけど、目の前の仕事と妻とムスメといる時間を優先した。

あの頃は実家しか頼れない状況だったけど、今は保育園などで地元のファミリーとの繋がりが出来てきて災害時にも助け合える関係を築いた。結局、半年後に地域金融機関は辞めて、自由が効く(であろう)組織が良いと思い、ある程度公共性の高い業務をしている中小企業に転職した。結果は、薄給かつ親会社のハラスメントで精神的に体調を崩して数度休職して退職。今は、幸いなことに規模の大きな金融機関のシステム屋をしている。

3.11で何が変わったかといえば、7年経った今はよく覚えていない。ただ、家族と日常を暮らせることは幸せなんだと素直に思っているのは確かだし、3.11と精神的に体調を崩した体験は、贅沢をしないでもハッピーに暮らす心もちに気づくことができた。輪番停電の体験から節電は当たり前になり、また、余計な支出は限りなく無くなった。

お金もモノも死んでしまえば意味は無いし、社会参加はするとしても出世や昇給、ステータスなどを求める野心はまったくと言ってよいほど無くなった。かと言って好きなことでメシ食って生きていくなんて気持ちはさらさらなくて、性分に合う公共インフラ(金融機関)の基幹システムの管理などをしている。そして、「いま、ここ」と「健やかに、朗らかに」を大切に生きている。なんとなく2018年は周回軌道にのって細々と長く生きていく初年度のような気がする。

ちょうど今、この記事を書いているのは2018年3月11日の14時台である。

亡くなった大勢の方々に哀悼の意を表するとともに、未だ行方不明である方々の尊厳が守られていることを心から願います。そして人命救助や避難民へのケアなどで尽力された方々、復興に取り組んだ方々には頭が下がります。

時間を見つけて、また、東北に旅にいきますね。必ず。

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